世阿弥は、父観阿弥とともに猿楽(現在の能)を確立した人として、その口伝書「風姿花伝」を初めとして様々な文献を残しています。
その中の一冊が「花鏡」です。
と、エラそうなことを言っていますが、読んだことはありません

でも世阿弥の言葉なら結構知ってる
初心忘るべからず
秘すれば花 秘せずはなる花べからず
思い内にあれば 色外に現るとかとか… 結構皆さん使っていたりしますよね

この世阿弥が、花鏡(おそらく)で言っていることにこんなことがあると、津川雅彦さんがテレビでおっしゃっていました。(又聞きの又聞きみたいな感じでスミマセン

)
世阿弥は能役者ですから、芸について語っています。
「素人のうちは肩力が入り、そのうち腹に重心が移り、腰で芝居をする。しかし名人は、頭より高いところに重心がある」わぁ~

と、思いました。
これって、トリートメントの時の施術者の姿勢と全く同じですね
頭より高いところに重心がある。ということを、津川さんは
「つまり
マリオネットですね。自分でコントロールするのではなく、自在に動かされる」と
おっしゃっていました。
とてもわかりやすいご説明に感激しました。
実は、トリートメントの時に頭より高いところに重心がある。というのは、気功を学んでからわかったことなのです。
いや、わかったというのは、体得したと言うことではなく

認知した。という程度です。
気功の先生の施術は、身は入っているのですが、とても柔軟で深くどこか踊りのようです。
それは自分でも相手でもなく、これも世阿弥の言葉ですが「
離見の見」で全体を見て身体や手が自由に動いている感じです。
(離見の見とは、その字の通り常に離れて全体を見る視点のことです)
気功の施術は、施術者とクライアントそして天の三位一体であるといわれています。
ですから、重心は天になることがあるのです。
ちょっとこの辺になると、なんか思想チックになるのですが、そういうものなんです

それを700年も前の能楽師も、同じことを言っていたと考えていたと言うことに感動しました。
多分、全てのことに通ずる考え方ではないかと思ったのです。
「初めは肩に力が入り、慣れて来るとそれが腹に落ち、身体全体(腰全体)で動くこと考えることが出来るが、名人や玄人は頭で考えたり理解するのではなく、俯瞰で動く」
といったこと。
読んだことのない花鏡ですが、いつか読みたい本のリストに入りました
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