イメージギャップと自意識
- 2014/12/03
- 23:49
なぜかこの1週間で、過去の友人や知人と再会することが多く、想いで話になる機会が増えています。
友人や知人は、私が出会った時代も場所も違いう人たちなのですが、同じようなことを言われます。
「あの時の綾ちゃん(綾さん)は、変わってた」
「あの頃の綾ちゃん(綾さん)は、怖かった」
へ〜〜。って感じです。
全く自覚がなかったかというと、そんなことはないのですが、誰もが口を揃えて言うほどの評価だとは思っていなかったので、かなり意外です。
そして、こんな声を続けざまに聞かされるのは、何か意味があるのかな?と、
ちょっと過去のその時点に立ち止まってみました。
するとこんなことがわかりました。
私はずいぶん人に依存していたんだな。
ということ。
変わってる。と言われていたのは、たぶん自分の主義主張を貫いて、流行に合わせなかったし、
いわゆるKYであることを「善し(よし)」としていました。
それは、今思えば
「自分が好きなことをわかってもらえなくても、人格が否定されている訳じゃないし
わかってくれる時もあるでしょ」
と、思っていたフシがあります。
つまり、相手はいつかわかってくれるはず。相手への依存です。
そして怖いと思われていたのは、違うと思えば怒っていたし、仕事や作業が出来ていないことはまっすぐ非難していました^^
これも同じで
「私があなたを嫌いで怒っている訳ではないと言うことはわかってもらえているし、
指摘することであなたが成長することを期待している。」
と思っていました。
こちらは、相手が変わってくれるはず。という依存です。
今は・・・もっと丸くなってる(はず)です。
それは、相手に依存しなくなったからじゃないかと思うんです。
いつからか、私は自分の人生は自分の足で歩きたい。と思うようになりました。
そしてそれこそが幸せの入り口なんじゃないかって、思っています。
たぶんそれからです。
他人の人生は「私のためにある訳じゃない」と思うようになったのです。
え?!どういうこと?
って感じですね。
人に依存する。ということは、つまりその人を自分の人生の「登場人物」として勝手に仕立てている。
自分の人生と言うシナリオの中の、脇役なのか友情出演なのか、わからないけど、
いずれにしても自分のための配役として設定して、それを疑っていないということです。
当たり前だけど、その人たちにもその人のシナリオがあり、私のシナリオに登場してばかりはいられないんです。
それに気付いてから、他人を自分の人生の登場人物にするのを止めたんです。
時々は、通行人やエキストラのように現れたとしても、基本は一人芝居。
それは寂しい。と言う人もいるかもしれませんね。
でも私はそうすることで、自分の人生と同様に他人の人生を大切に考えることが出来るようになりました。
そう考えると、今関わる全ての人が愛おしく、大切な人に思えてくるのです。
だからこそ以前のような「私は私」という考え方が、逆に無くなって来ているのです。
私はあなたであり、あなたは私。
自分に起こることは、あなたにも起こることだと、思えるようになっているのです。
(ちょっとこれは飛躍していてわかりにくいか?!)
いずれにしても、私が他人に依存することを止めたら
もっと自立した個としての共感や共有が出来るようになったように感じています。
じゃあ今は、「変わった人」から脱却したかというと、それは相変わらず。
ただその自意識はきちんと持っていますし、一応説明する術も持つようになりました。
「怖い人」かというと、たぶん本質は変わりません。
ただ、以前のように「あなたのために厳しくしている」わけではありません。
私の中から沸き上がる感情と情熱がそうしているだけです。
今は私の見せたい私を見せられているかな。と思っています。
が、どうでしょうね^^

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友人や知人は、私が出会った時代も場所も違いう人たちなのですが、同じようなことを言われます。
「あの時の綾ちゃん(綾さん)は、変わってた」
「あの頃の綾ちゃん(綾さん)は、怖かった」
へ〜〜。って感じです。
全く自覚がなかったかというと、そんなことはないのですが、誰もが口を揃えて言うほどの評価だとは思っていなかったので、かなり意外です。
そして、こんな声を続けざまに聞かされるのは、何か意味があるのかな?と、
ちょっと過去のその時点に立ち止まってみました。
するとこんなことがわかりました。
私はずいぶん人に依存していたんだな。
ということ。
変わってる。と言われていたのは、たぶん自分の主義主張を貫いて、流行に合わせなかったし、
いわゆるKYであることを「善し(よし)」としていました。
それは、今思えば
「自分が好きなことをわかってもらえなくても、人格が否定されている訳じゃないし
わかってくれる時もあるでしょ」
と、思っていたフシがあります。
つまり、相手はいつかわかってくれるはず。相手への依存です。
そして怖いと思われていたのは、違うと思えば怒っていたし、仕事や作業が出来ていないことはまっすぐ非難していました^^
これも同じで
「私があなたを嫌いで怒っている訳ではないと言うことはわかってもらえているし、
指摘することであなたが成長することを期待している。」
と思っていました。
こちらは、相手が変わってくれるはず。という依存です。
今は・・・もっと丸くなってる(はず)です。
それは、相手に依存しなくなったからじゃないかと思うんです。
いつからか、私は自分の人生は自分の足で歩きたい。と思うようになりました。
そしてそれこそが幸せの入り口なんじゃないかって、思っています。
たぶんそれからです。
他人の人生は「私のためにある訳じゃない」と思うようになったのです。
え?!どういうこと?
って感じですね。
人に依存する。ということは、つまりその人を自分の人生の「登場人物」として勝手に仕立てている。
自分の人生と言うシナリオの中の、脇役なのか友情出演なのか、わからないけど、
いずれにしても自分のための配役として設定して、それを疑っていないということです。
当たり前だけど、その人たちにもその人のシナリオがあり、私のシナリオに登場してばかりはいられないんです。
それに気付いてから、他人を自分の人生の登場人物にするのを止めたんです。
時々は、通行人やエキストラのように現れたとしても、基本は一人芝居。
それは寂しい。と言う人もいるかもしれませんね。
でも私はそうすることで、自分の人生と同様に他人の人生を大切に考えることが出来るようになりました。
そう考えると、今関わる全ての人が愛おしく、大切な人に思えてくるのです。
だからこそ以前のような「私は私」という考え方が、逆に無くなって来ているのです。
私はあなたであり、あなたは私。
自分に起こることは、あなたにも起こることだと、思えるようになっているのです。
(ちょっとこれは飛躍していてわかりにくいか?!)
いずれにしても、私が他人に依存することを止めたら
もっと自立した個としての共感や共有が出来るようになったように感じています。
じゃあ今は、「変わった人」から脱却したかというと、それは相変わらず。
ただその自意識はきちんと持っていますし、一応説明する術も持つようになりました。
「怖い人」かというと、たぶん本質は変わりません。
ただ、以前のように「あなたのために厳しくしている」わけではありません。
私の中から沸き上がる感情と情熱がそうしているだけです。
今は私の見せたい私を見せられているかな。と思っています。
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